田中さんは、大塚駅前のダイニングバー『Shisui deux(シスイドゥー)』の店長を務めながら、レビュー・カンパニー「Tokyo ROUGE」のリーダーとしても精力的に活動されています。

もともと、ダンスがお好きだったんですか?

ーはい。小さい頃から踊りに異常に興味があって、テレビで観た振付を覚えるのが趣味でした。あるとき、実家横浜の青葉台駅前の東急百貨店に、水色のレオタードとバレエシューズが売っていたんですけど、それがどうしても着たくて。そのためにはどうしたらいいか考えていたら、近所に「ジャズダンス教室」ができたんですね。それで「教室に通いたい」と親を説得し、レオタードとバレエシューズは祖父に買ってもらって小6の時に習い始めたのがキッカケですね。

そんな小さい頃から本格的に踊りを習っていたのですね。

ーそうなんです。中学校では新体操部に入ったんですけど、顧問の先生がとってもいい指導者で。何も分からなかった私に、コンクールで入賞したり、自分でダンスの構成を考えたりと、「目標を達成することの大切さ」を教えてくださって。それで、「踊りを教える仕事もいいな」と思ったんです。それで、玉川大学を卒業後に中学校の教員になりました。

学校の先生だったんですか。

ーそうなんですよ(笑)。体育を教えたり、ダンス部や体操部の顧問を務めたり、とってもやり甲斐があったんですけど、「自分が踊りたい」っていう気持ちが、人に教えれば教えるほど沸々としてしまって。仕事を終えて、町田から車を飛ばして原宿のダンス教室まで夜な夜な通っていたんです(笑)。それでクタクタになって帰って来て、朝7時半に学校の門を開けるということをしばらく続けていたんですけど、このままこれを続けていくのはシンドイなと思うようになって。環境を変えていくには、自分が変わるしかないと思い、先のビジョンも何もないまま3年で辞めてしまったんです。

その決断って、なかなか出来るものではないですよね?

ーアホですよね?(笑)それで、とりあえずオーディション雑誌を買ってきて、近所の写真屋さんで撮った写真を履歴書に貼って、かたっぱしから送り、返事があったところから取り敢えず働き始めたんですよ。よく分からないミュージカルに出演したり、今考えると「よくこんなの出ちゃったな」みたいな依頼も受けたりしているうちに、パパイヤ鈴木さんの事務所のダンサー募集があったんです。そこで、サザンオールスターズさん、及川光博さん、ウルフルズさんなどのコンサートダンサーや、PV撮影のお仕事をさせてもらって。本当にたくさんのことを勉強させてもらいました。

なかなかできない経験ですよね。

ーでも、結局、テレビの収録ではいくら頑張って練習して、ヘアメイクにも時間をかけて挑んでも、カメラで抜いてくれることなんて、ほんのちょっとなんですよね。もちろんライブでも、一生懸命歌っても結局お客さんが見ているのは、ダンサーじゃないんです。「これじゃあ、セットと変わらないな」と段々思うようになってきて、仲のいいダンサーと「ウズメ」というレビュー・カンパニーを結成しました。

誰かのバックダンサーではなく、自分たちが主役になろうと。

ーそうです。「ウズメ」は5年やって、イイ感じなところまでいったんですけど、色々あって解散することになったんです。それで、残されたダンサーの子たちと、当時新宿にあった「SPACE107」という劇場にお声掛け頂きカンパニーをもたせて頂きました。それが、今も続いているレビュー・カンパニー「Tokyo ROUGE」。新宿に昔、『Moulin Rouge』っていうキャバレーがあって、そこからいただいた名前なんです。出だしからチケットも瞬殺で売れたし公演もうまくいって、次々と仕事も舞い込んでくるようになり。オリジナル曲を作ろうと思って演出家を入れるなどして、皆様のお力添えのおかげ様で今に至るという感じですね(笑)。

大塚で飲食店『Shisui deux (シスイ ドゥー)』を開いた経緯は?

ー実は、このお店のオーナーは「Tokyo ROUGE」の演出家なんですよ。元々、西落合で「シスイ」というレストランをやっていて。大塚に2号店を出すことも聞いていたんですが、ある日「店長をやるはずだった子が出来なくなっちゃったから、代わりにやらない?」って言われて。私、飲食店なんかやったことないし「何を言っちゃってんのこの人?」って思ったんですけど(笑)、取り敢えず物件を観に行ったら床にステージのような段差があって。「これ、ステージに使えるんじゃない?」なんて盛り上がってしまったんですよ。劇場でお世話になっていた照明さんとか音響さんに手伝ってもらい、友人のデザイナーに内装を任せたりしつつ、アレヨアレヨとやることになり。来年の4月で10年になるんです。

それも不思議な縁ですよね。最初、大塚でお店を始めた時は、大塚とは縁もゆかりもなかったとか。

ーそうです。当時はまだ一人も知り合いがいなかったし、なにせ駅も南北がつながっていなかったし。親にも心配されて、「やっていけるのだろうか……」と不安でしたね。オーナーからは、「とにかく、事業所という事業所は、目に入るところ全部回りなさい」って言われたんですよ。それですぐ名刺を作り、、「こういうお店をオープンします」って、言われた通り全部の事業所へ挨拶に行ったんです。それがスタートでした。

お店が軌道に乗るまでは大変でしたか?

ーもちろん大変でした。「こんなに人って、来ないものなんだ」って(笑)。難しかったですね。何もノウハウ知らないで始めたから、完全に手探り状態だったし。最初は知り合いと親戚で、何ヶ月回るかな……って感じ。軌道に乗るのに3年はかかったんじゃないでしょうか。1年目は、ビールや食材をどれだけ発注すれば良いのか、シフトどれくらい入れたら良いのかも分からなくて。オープンしてすぐにビールが無くなってしまったり、閑散としたフロアに5人、キッチンに5人くらいバイトの子が立っていたり(笑)、そんな失敗も何度もありました。よくオーナーものんびり見てくれていたな、と。

そうだったのですね。なかなか波乱万丈な人生ですよね。

ーそうなんです。よく「元々は何の人だったの?」って訊かれることが多いのだけど、元々は教員だったんです(笑)。

お話を聞いていると、常に問題意識を持っていて、それで自分の環境を変えてきたのだなと思いました。

ー問題意識……持っているのかなあ(笑)。飽きっぽいっていうのもあるし、とにかく楽しくないと嫌なんです。楽しい方に向かっていった結果、こうなっていたという感じでしょうか。辛かった時期や、大変だった時期もあったはずなんですけど、忘れちゃってるんですよね(笑)。

節目節目で劇団を任されたり、お店を任されたり、最近では「まちかどライブ」のキュレーションをされたり。ひとえに田中さんのお人柄なのかなと。

ーこればっかりは縁だと思うし、有難いなと思っています。きっといつも楽しそうにしているから、面白がってもらえたんじゃないかなと。6月3日(土)に開催された「まちかどライブ」の、大塚駅南口オープンステージでも、きいやま商店さん(石垣島出身の従兄弟・兄弟で結成されたエンタメユニット)や、Afro Begue(アフロベゲ)さんが出演してくださって、あんなに明るいうちから大塚の駅前にたくさんの人たちが集まってくれる姿が見られたし、大塚の人たちも喜んでもらえたし、やりがいがありますよね。

最後に、大塚の印象をお聞かせいただけますか?

ーお店がちょうど大塚三業通りの入り口にあるんですけど、この辺りって昔は花街だったから、芸事をやっている人を本当に大事にしてくださるんです。みなさんあったかいし、とっても居心地がいいです。本当に、全員が親戚に思えるの(笑)。今、豊島区全体がアートカルチャーに力を入れてくださっているのもあるし、私にできることであれば、なんでも手伝わせていただきたいです。最近、東京ルージュに加入してくる若いダンサーの子たちからは、「おかあさんと同い年ですね!」なんて言われたりするんです。そういう、若い人たちを育てるのも楽しくなってきました。昔は、自分が出たがりだし、オイシイところを取れないとつまらなかったんですけど(笑)、最近はオイシイところもみんなに持っていってもらった方が楽しいって思えるようになって。そんな自分の変化も楽しんでいます。


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